容保は、持ち前の生真面目さを持って、京都の治安維持に努め、朝廷の信頼も厚かった。
なかでも孝明天皇からの信頼は絶大で、「汝の忠節を喜ぶ」という宸翰(しんかん・天皇の手紙)や御製(天皇の和歌)、純緋の衣を賜るほどであった。
これには容保も感激し、全力で忠節を尽くした。慶応2(1866)年7月、将軍家茂が急逝、
12月には公武合体派で容保に目を掛けてくれていた孝明天皇が崩御する(毒殺されたといわれている)。
幕末、新選組と会津藩の大きな転機が訪れます。国政の混乱を避けるため徳川幕府の十五代将軍、
徳川慶喜が朝廷に大政を奉還しました。慶応三年の暮れでした。しかしそれは、騙し討ちでした。
薩摩と長州の幹部は、徳川慶喜と松平容保に朝敵の汚名をきせ、官職を剥奪し所領の没収を
突き付けたのです。
■ 信念・無念 ■
都の治安を前身全霊で遂行し、都に火を放ち孝明帝を長州に拉致しようとした策略を未然に防ぎ、「公武一和」を望んだ
容保も徳川慶喜に見放され、いわば幕府の生贄となって戊辰戦争を戦う羽目に陥った。
戊辰戦争後、慶喜が駿府で悠々自適の生活をしている頃、会津藩家臣は会津降陣人とさげすまされ、容保は日光東照宮の
宮司としてひっそりと生きねばならなかった。
松平容保が生涯持ち続けたのは、「おのれは朝敵にあらず」との固い信念であり、容保の孫娘松平節子が秩父宮妃殿下として
皇室に入られた時、容保の無念のおもいは晴れたのである。
明治26年12月5日没 享年59歳
後年会津を代表する人物:山川大蔵・山川健二郎・大山捨松がそうですが、いずれこの3名も紹介する予定です。
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